自由な場所と逃げたい私

適応障害とか言われてる20歳女子の精神病棟入院記。10月20日退院。

断水。

朝から気分が落ちていました。婦人科でPMSだと診断され、今日はアプリによると生理2日前。そりゃあ、落ち込みもあるだろうと思っていたけれど。
先日の大雪で九州地方の私の自宅も例外なく断水中で、トイレの水はお風呂の残り湯でどうにかしていました。今朝母から、「催したらどこかトイレのあるところに連れてくから言ってね」と言われたので、もう水がなくなってきたんだろうなと理解していました。しかし、その直後に母はトイレへ。まだ水はあるようです。

どうして私だけ外のトイレを使わなくちゃいけないの??

全てはここから始まりました。ずっと前から母が私に気を遣いながら生活していることはわかっていました。特に私が精神的な不調を訴え始めた頃から。家族というより恩のある相手から預かっているどこかの娘さんの面倒を見ているような感じがしていました。それでも私は私なりに進路のことを母に相談したり、調子の良いときは家事も少しやったりと、一緒に住む家族として暮らしてきたつもりでした。でも、この一件で母が家族という構成員から外して私に接しているのだという疑いが確信になりそうで恐ろしくて悲しくて、リビングに立ち尽くして泣いてしまいました。母は腫れ物に触れるように「どうしたの?なんか悪いこと言った?」と既に青ざめていました。私は祖母と母は家のトイレを使うのに、私はどうして外に連れて行ってもらわなければならないのかと言いました。
「だって、あーちゃんにはきれいなトイレを使わせてあげたいから。ばーちゃんが汚して、水もないからまともに掃除もできていないし、流すたびに新しく水を補充させる手間をかけるのも可哀想だから」
やっぱり、という感じがしました。確かに私は潔癖なところがあります。しかし、断水という状況下で掃除の徹底を求めたりはしません。自分で自分が納得いくようにしています。断水だから仕方ない。祖母が汚してしまうのも仕方ない。母がトイレに限らず家の中をできるだけきれいに保とうと努力しているのもわかっている。私は家族です。共に生きるべき相手との不便も不快も受け入れていかなければ、家族という関係が成り立たないと思える程度には成長しました。母にはそのことが全然伝わっていなかったようです。今日感じたことは全て説明しました。どれくらいわかってもらえたかはわかりません。母は最後まで「私が悪いの。私があーちゃんのためにしてあげないと気が済まなくてやっちゃうの。ごめんなさい」と言っていました。
退院してから何度かこのような行き違いがあり、その度にぶつかるというか本音を言う努力をしてきましたが、あと何度やれば私という人間の性格や人格的成長をありのまま受け止めてもらえるのでしょうか。入院前の事勿れ主義で溜め込み苦しむ私よりはマシだとは思いますが、これはこれで母と私の「私」の見方の違いをまざまざと見せつけられているようで辛いものがあります。いつか、互いを個人として尊重しつつ懐にどーんと入れて笑いあえる関係を築けたらと思う雪解けの日でした。

略、わたし

長谷川彩乃の高校時代から短大中退までの大まかな流れです。

備忘録として残します。

 

九州北西部出身。大学進学を機に上京。うつ病の疑いで大学を後期より休学、帰省、のちに退学。

2014年11月頃受診した大きな精神科にて、うつ病ではなく適応障害による抑うつ症状と診断が下る。診断前ではあるが広汎性障害を持つことも明らかとなった。2015年4月20日、精神科病棟に自殺未遂で任意入院、同年10月20日に退院となる。

 

―高校時代―

偏差値低めの商業高校入学後は希望していた美術コースを周りとの画力の差で断念し、進学クラスに在籍。校内では成績優秀。特に国語、英語が得意。実技系科目、数学は苦手。学業的にも生活的にも卒業まで問題なく過ごした。

美術コースは諦めたものの、高2までは自身のプライドを捨てきれず美術部に所属。高3になり受験勉強という理由の元、平和的に退部。周囲からは明るくて真面目、優しく頼りがいがあると言われていた。生徒会活動などにも積極的に取り組んでいた。受験期より抑うつ状態が続いたが、高3夏頃に交際を始めた年上の恋人の支えと、心療内科から処方された抗うつ剤でなんとか持ち堪える。問題なく志望大学に合格。上京前には薬もいらなくなった。

 

―大学進学とその後の詳しい行動―

・大学在学中

抑うつ状態も回復傾向にあるように感じられ、上京したこともあってか、高校時代に比べ外見に気を遣うことや友人との交流も格段に増えた。学習面では心理学、共生論、平和学に強い興味を示した。

大学の学生寮に居住していたが、2人部屋の相手の睡眠習慣と合わず、在寮2ヶ月ほどで不眠の症状を自覚する。学校に近い渋谷のメンタルクリニックデパスを処方された。しかし不眠は解消されず、イライラや聴覚過敏がひどくなり急激に抑うつ感が増すが、期末試験まで乗り切った。また、4月の入学以来、月に1~2回のペースで原因不明の高熱を出していた。

 

・19歳

夏休み期間の閉寮を機に退寮。高校時代の恋人も東京で働いていたため、同棲を始めた。居住場所は大学に近い下北沢周辺。しかし、平日は仕事で恋人が12時間以上いない状態が続く。また、8月初旬にスマートフォンの機種変更でLINE交換のみだった友達の連絡先が全て消える。抑うつ感が増して外出もしなくなった。ただし、掃除、洗濯、料理などの家事はこなしていた。対人関係が恋人と母親に限られた上、見知らぬ土地に不安を抱えて過ごす。常時の不安感と抑うつ感の他にヒステリーのような状態が頻発。極度な抑うつ思考、ちょっとしたことで泣く、攻撃的な発言の後、それを後悔して落ち込む、ということの繰り返し。不眠時に通ったメンタルクリニックを再受診。不眠の対症療法として、デパスを夕方、就寝前に処方される。しばらく通院で様子を見た。恋人とベッドを共有していたので不眠は続く。この頃に体重が激減する。

夏休みが明け、アルバイトの面接を受けるなどして症状は回復に向かいつつあるように見えた。しかし、通学を始めて3日目の朝、全身が鉛様に重くなり動けなくなる。その夜、眠れないことにいつも以上な不安を覚え、トイレのドアノブに通学リュックの紐を垂らし、首を吊ろうとした。恋人に止められ、泣きながら寝る。翌日、事を母親に報告。母親の勧めで自宅から近い心療内科を受診した。ここで、うつ状態と判断されたのかジェイゾロフトメイラックスを処方される。また、自殺未遂を起こしている最中の記憶を客観的に淡々と話したことから、離人症を疑われる。この時、医師から「上京していい大学通って、彼氏と同棲まで許してもらっていて、うつになるのが分からない」と言われる。もうこの医師にはかかりたくないと思いつつも、極度の不眠と抑うつ感のために6日後には恋人の付き添いのもと再受診。ハルシオンを追加処方され、不眠は解消されたが抑うつ感は増す一方だった。恋人のいない生活は続く。アルバイトには合格していたが、2度ほど研修を受けたのみで休職をもらうことになる。

誰とも会わない、話さない状態に限界を感じ、出会い系のアプリをインストールした。多数の男性から自身の女性的価値を認めるような発言を引き出し、評価を受けることで孤独を癒すようになる。10月も終わろうとする秋の20時頃、夕食の買い出しに行く。ふと思いつきアプリ内の掲示板で「最寄り駅で会える男性を探している」といった内容の書き込みをする。すぐに数名の男性が反応し、それで満足していたが、アプリ内でよく連絡を取っていた男性から「その駅なら15分で着く」とメールが届き、うろたえながらも待ち合わせに応じてしまう。この辺りで自身の価値観を伴う判断能力はなくなっていたと思われる(高校時代にも寂しさのために出会い系の掲示板等は利用したことがあったが、実際に会うなどという行為は自分に禁じていたし、その気もなかった)。その男性は10歳程年上のサラリーマンだった。人柄や話題は予想よりもはるかに“普通”だと感じた。夕食と適当な自己紹介だけで終わるかと思われたが、結局は肉体関係を持つ。自分だけの秘密にできず、大学入学後も唯一繋がっていた友人にLINEでありのままを打ち明ける。罪悪感に打ちひしがれて、アプリのアカウントを削除、アンインストール、相手の連絡先、メールのやりとりなど全てを削除した後、あえてスマホのロックを外すという防衛的な姿勢に出る。眠っている間に、不審に思った恋人からスマホの内容をチェックされ、消し忘れていた友人とのやりとりが見つかる。恋人は責め立てるわけでもなく、号泣しながらキャリーバッグを持って出ていく。謝り倒すがどうしようもなくなり、母親に電話する。それから放心状態の4時間を経て、恋人が帰宅する。荷物を取りに来ただけだという恋人を引き留め、ひたすら謝り、どうにか許してもらう。恋人は仕事にならないと会社から判断されて家に帰された上、1週間の休息を命じられていた。その日のうちに宝石店でペアリングを購入した。左手の薬指に離さずつけておくように言われ、その後、破局するまで水仕事と風呂以外の時は絶対に外さなかった。恋人を仕事ができないほどの精神状態に追い込んでしまった罪悪感もありながら、1週間の休暇中ずっとそばにいられることを心から喜んだ。恋人の休暇が終わるも、抑うつ感は軽減されているように感じた。家事も気合いを入れて行うようになる。アルバイトにも復帰した。2,3週間は順調な生活を送る。

以下、断片的な記憶により想像を含める。恋人の仕事が忙しくなって気分もかなり下降していた。“なんとなく”死んだほうがいいのではないかという気持ちを抱えて暮らしていた。その日は特に落ち込んでいた。わけのわからない不安に飲まれていた。恋人から帰宅時間を聞くのを忘れていた。時計は21時を回っていたと思う。夕食後の薬を飲んで落ち着こうと思いついて、薬袋を覗いた。すると、次回の診察までのハルシオンの束と飲み残したデパスなど、様々な薬がやけに目についた。全部飲んでしまったら、どうなるんだろう?今まで何度も首を吊っても死にきれなかったのは、意識が飛ぶ前に自分で回避してきたからだ。逃げ場をなくせば死ねると思った。そして、薬の粒を片手いっぱいに溜めていく。水で飲んでも早く効かないだろうと赤ワインで、左手に溜めた薬を口に入れ噛み砕きながら飲み干した。意識がなくなる前にと思いついて、引っ越しで使ったビニール紐をトイレの内側のドアノブに巻き付け、外側に上から垂らして輪っかを作った。それだと体重でドアが開いてしまいそうだったので、外側のドアノブにも巻いてから輪っかにした。しばらくしても、意識は飛ばないし眠くもならなかった。仕方がないのでスケジュール帳のノート部分を破いて、簡単に遺書を書いた。酒に酔ってきたらしいけれど、普通に歩けるし意識もしっかりしている。ぼんやりしてくるまで、掃除でもしよう。ソファの位置を正して、テーブルを拭いて。20分程度しか潰せなかった。もういい、吊ってみよう、とビニール紐に首を通した。とりあえず待てなかったし、死ぬにはビニール紐は細すぎた。ただ痛いだけで、死ねる気配はなかった。しかし意外と逃げられない仕組みで作ってしまっていた。左手を伸ばすと、キッチンのシンクに包丁を見つけた。刃の部分をつまんで取り上げ、ビニール紐を切った。勢いよく廊下に弾かれ、足がもつれた。包丁がリビングの床に落ちたので拾って、遺書の横に置いた。首を吊るのは平気でも、刃物は何故か怖かった。スマホを起動させて、震える手で母親に電話をかけた。とにかく何か死ぬようなことをやったことは伝わった。大家さんが近くに住んでいるから、このまま通話しながらそこに行くよう言われたので、大家夫婦の家まで行った。インターホンを鳴らした頃には立ち上がれなくなっていた。母が何か叫んでいたのが聞こえたらしく、旦那さんは私の手からスマホを取って、奥さんは上半身を抱きしめるようにして私を家の中に入れてくれた。大丈夫だからね、とずっと声をかけられていた。救急車を呼んでくれたらしく、よくわからないまま運ばれた。きれいな女医さんがいくつか質問してきて、何と答えたかは覚えていないが、最後に「胃洗浄はしなくてもいいみたいです。でも、一晩は入院してね」と言って去っていったのは覚えている。

この事件で母親の心配はピークに達した。地元に帰ることになった。

 

休学手続き、アルバイト退職、東京で済ませておかなければいけないことを行うと共に母親と東京観光をする。渋谷のペットショップでミックス犬の子犬を見つける。一緒に連れて帰ろうかという母親のひとことで飼うことになった。まだ生後2か月ほどの子犬を連れ、新幹線と電車を乗り継ぎ地元九州へ帰る。

恋愛もありました。備忘録。

アネックス病棟に来て、3週間が過ぎました。流石に慣れました。ちょっとここで、3階病棟で急速に惹かれ合った「彼」について、備忘録的に記録を残したいと思います。

まず、彼は私より先にアネックス病棟に移動になっていました。なので私たちは、院内散歩という名のデートやら電話やら院外外出という手段を使って逢瀬を重ねていました。3階病棟とアネックス。案外、物理的な距離は大きかったです。そして私が思ったこと。「この人の性格も価値観も苦手だ。おまけに将来性も感じられない。一緒にいるのが負担だ」あまりに単純で無責任なものですが、会うたび話すたび、この思いは募っていきました。普段はクールな彼が見せてくれる、笑顔、優しげな眼差し、不安、焦燥。愛おしそうに私を撫でる彼を見ていると、私たちかなり恋してるな、だとか甘い気分になるのですが、ふと現実の彼を目にすると、ふわりとした甘さも心を掴まれるような酸っぱさも消えてしまうのです。醒める、ときめく、をひたすらに繰り返しました。どんどん苦しくなっていきました。私は自分の感情の起伏と、彼の言葉に疲れきっていることに気がつきました。「距離を置こう」そう思って、私は連絡を尽く断ちました。ここでいけなかったのは、私自身のことに精一杯で、距離を置くという台詞すら彼に伝えなかったことです。連絡を断って、私はひとりで楽になっていました。このまま自然消滅させられればな・・・と思うほどでした。連絡を断ってから2,3日したときのことです。ある男性患者さんから、「とりあえず、読んで。彼からだよ」と、四つ折りにされた手紙を手渡されました。大体予想通りの文面でしたが、最後の一言に息が詰まりました。「待ってるから」
彼は、3階病棟の食堂が見える位置で、ずっと私を待ち続けていたらしいのです。「あぴんちゃん、俺もアイツの友達やけんさ。俺も付いていくけんさ、会いに行こうで。・・・今から」後はその男性患者さんの仲介で、別れ話とやらをやりました。そして別れが成立し、互いに借りたものを返したりという事務的作業を行いました。「・・・最後に聞くけどさ、本当に別れるの?」傷ついた小動物のような静かな目で、彼は私を見つめます。私にしか見せない、彼の表情に、やはり私は言葉にならないときめきと、優越を感じます。絶対的に私にしか見せない、切なげで美しい彼。私を愛しているという気持ちを隠そうともしない幼げな彼。甘美でした。そんな思いを振り切って、私は首肯しました。涙の3滴ほどが、膝を濡らしました。何故かは分かりません。とにかく彼は、相当に美しかったのです。
これが、1度目の別れ。

置かれた場所で咲けません。

通称アネックス。入院病棟本館にいた私は、別館に移動になりました。もう2週間ほど前のことですが。病院側の決定、主治医の許可。私に拒否権はありませんでした。

「申し訳ありませんが、今日の午後に移動していただくようになります」
え?・・・何も言えませんでした。その日の午後は、院外作業療法でボーリングに行く予定だったし、最近借りた本はまだ読んでないし。
それが6月19日の話です。私は散々、抗議しました。急性期治療病棟は3ヶ月いられるはず、どうしてまだ2ヶ月しか経っていない私が移動なのか。主治医と話をさせろ。診察以外では患者と話はしない?ふざけるな!抗議に熱が篭っていくほどに、なんだか泣けてきました。せっかく作った人間関係、看護師との信頼関係。全てをイチから作り直すのかと思うと、絶望感に襲われました。加えて、アネックス病棟という場所には、悪い噂ばかりが流れているのです。思春期真っ盛りの女の子がたくさん入院している場所です。女のヒエラルキーというやつが当たり前に存在するのは想像にかたくありません。喧嘩別れみたいなことをしたあの娘も、アネックスにいるわけです。絶望、絶望、憤怒。私は泣きながら荷物をキャリーバッグに詰め込み、ベッドの上で放心していました。そうしていると、何人かの男性患者が連絡先を交換したいと持ちかけてきて、私は3階病棟でそれなりにモテていたことを知りました。16時頃、大して親しくもない看護師が台車を持って迎えに来ました。私は内心の嵐を抑え、落ち着いた様子で移動を受け容れました。仲の良かった患者さんたちが見送りに来てくれました。私は深く頭を下げて、アネックスへの通路に足を踏み入れました。

離れたり、忘れなかったりするもの

全くプロフィールには書いていませんが、私は中学・高校と美術部に所属していました。総合学科の高校で厳しくデッサンを学び、その道に進むのは不可能だと判断して、進学コースを選んだために、しばらく絵というものから離れた生活を送っていました。

しかし入院してから暇ができると、なんだか描きたいような気がしてきて、昔の画材を実家から持ってきて、ちまちま描いています。なんとなーく載せてみようかな、なんて思ったので粗末なものを置き逃げします。

たぶん、今日は調子が良いのでこんなことを思いつくのです。浅はかですね。

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