自由な場所と逃げたい私

適応障害とか言われてる20歳女子の精神病棟入院記。10月20日退院。

略、わたし

長谷川彩乃の高校時代から短大中退までの大まかな流れです。

備忘録として残します。

 

九州北西部出身。大学進学を機に上京。うつ病の疑いで大学を後期より休学、帰省、のちに退学。

2014年11月頃受診した大きな精神科にて、うつ病ではなく適応障害による抑うつ症状と診断が下る。診断前ではあるが広汎性障害を持つことも明らかとなった。2015年4月20日、精神科病棟に自殺未遂で任意入院、同年10月20日に退院となる。

 

―高校時代―

偏差値低めの商業高校入学後は希望していた美術コースを周りとの画力の差で断念し、進学クラスに在籍。校内では成績優秀。特に国語、英語が得意。実技系科目、数学は苦手。学業的にも生活的にも卒業まで問題なく過ごした。

美術コースは諦めたものの、高2までは自身のプライドを捨てきれず美術部に所属。高3になり受験勉強という理由の元、平和的に退部。周囲からは明るくて真面目、優しく頼りがいがあると言われていた。生徒会活動などにも積極的に取り組んでいた。受験期より抑うつ状態が続いたが、高3夏頃に交際を始めた年上の恋人の支えと、心療内科から処方された抗うつ剤でなんとか持ち堪える。問題なく志望大学に合格。上京前には薬もいらなくなった。

 

―大学進学とその後の詳しい行動―

・大学在学中

抑うつ状態も回復傾向にあるように感じられ、上京したこともあってか、高校時代に比べ外見に気を遣うことや友人との交流も格段に増えた。学習面では心理学、共生論、平和学に強い興味を示した。

大学の学生寮に居住していたが、2人部屋の相手の睡眠習慣と合わず、在寮2ヶ月ほどで不眠の症状を自覚する。学校に近い渋谷のメンタルクリニックデパスを処方された。しかし不眠は解消されず、イライラや聴覚過敏がひどくなり急激に抑うつ感が増すが、期末試験まで乗り切った。また、4月の入学以来、月に1~2回のペースで原因不明の高熱を出していた。

 

・19歳

夏休み期間の閉寮を機に退寮。高校時代の恋人も東京で働いていたため、同棲を始めた。居住場所は大学に近い下北沢周辺。しかし、平日は仕事で恋人が12時間以上いない状態が続く。また、8月初旬にスマートフォンの機種変更でLINE交換のみだった友達の連絡先が全て消える。抑うつ感が増して外出もしなくなった。ただし、掃除、洗濯、料理などの家事はこなしていた。対人関係が恋人と母親に限られた上、見知らぬ土地に不安を抱えて過ごす。常時の不安感と抑うつ感の他にヒステリーのような状態が頻発。極度な抑うつ思考、ちょっとしたことで泣く、攻撃的な発言の後、それを後悔して落ち込む、ということの繰り返し。不眠時に通ったメンタルクリニックを再受診。不眠の対症療法として、デパスを夕方、就寝前に処方される。しばらく通院で様子を見た。恋人とベッドを共有していたので不眠は続く。この頃に体重が激減する。

夏休みが明け、アルバイトの面接を受けるなどして症状は回復に向かいつつあるように見えた。しかし、通学を始めて3日目の朝、全身が鉛様に重くなり動けなくなる。その夜、眠れないことにいつも以上な不安を覚え、トイレのドアノブに通学リュックの紐を垂らし、首を吊ろうとした。恋人に止められ、泣きながら寝る。翌日、事を母親に報告。母親の勧めで自宅から近い心療内科を受診した。ここで、うつ状態と判断されたのかジェイゾロフトメイラックスを処方される。また、自殺未遂を起こしている最中の記憶を客観的に淡々と話したことから、離人症を疑われる。この時、医師から「上京していい大学通って、彼氏と同棲まで許してもらっていて、うつになるのが分からない」と言われる。もうこの医師にはかかりたくないと思いつつも、極度の不眠と抑うつ感のために6日後には恋人の付き添いのもと再受診。ハルシオンを追加処方され、不眠は解消されたが抑うつ感は増す一方だった。恋人のいない生活は続く。アルバイトには合格していたが、2度ほど研修を受けたのみで休職をもらうことになる。

誰とも会わない、話さない状態に限界を感じ、出会い系のアプリをインストールした。多数の男性から自身の女性的価値を認めるような発言を引き出し、評価を受けることで孤独を癒すようになる。10月も終わろうとする秋の20時頃、夕食の買い出しに行く。ふと思いつきアプリ内の掲示板で「最寄り駅で会える男性を探している」といった内容の書き込みをする。すぐに数名の男性が反応し、それで満足していたが、アプリ内でよく連絡を取っていた男性から「その駅なら15分で着く」とメールが届き、うろたえながらも待ち合わせに応じてしまう。この辺りで自身の価値観を伴う判断能力はなくなっていたと思われる(高校時代にも寂しさのために出会い系の掲示板等は利用したことがあったが、実際に会うなどという行為は自分に禁じていたし、その気もなかった)。その男性は10歳程年上のサラリーマンだった。人柄や話題は予想よりもはるかに“普通”だと感じた。夕食と適当な自己紹介だけで終わるかと思われたが、結局は肉体関係を持つ。自分だけの秘密にできず、大学入学後も唯一繋がっていた友人にLINEでありのままを打ち明ける。罪悪感に打ちひしがれて、アプリのアカウントを削除、アンインストール、相手の連絡先、メールのやりとりなど全てを削除した後、あえてスマホのロックを外すという防衛的な姿勢に出る。眠っている間に、不審に思った恋人からスマホの内容をチェックされ、消し忘れていた友人とのやりとりが見つかる。恋人は責め立てるわけでもなく、号泣しながらキャリーバッグを持って出ていく。謝り倒すがどうしようもなくなり、母親に電話する。それから放心状態の4時間を経て、恋人が帰宅する。荷物を取りに来ただけだという恋人を引き留め、ひたすら謝り、どうにか許してもらう。恋人は仕事にならないと会社から判断されて家に帰された上、1週間の休息を命じられていた。その日のうちに宝石店でペアリングを購入した。左手の薬指に離さずつけておくように言われ、その後、破局するまで水仕事と風呂以外の時は絶対に外さなかった。恋人を仕事ができないほどの精神状態に追い込んでしまった罪悪感もありながら、1週間の休暇中ずっとそばにいられることを心から喜んだ。恋人の休暇が終わるも、抑うつ感は軽減されているように感じた。家事も気合いを入れて行うようになる。アルバイトにも復帰した。2,3週間は順調な生活を送る。

以下、断片的な記憶により想像を含める。恋人の仕事が忙しくなって気分もかなり下降していた。“なんとなく”死んだほうがいいのではないかという気持ちを抱えて暮らしていた。その日は特に落ち込んでいた。わけのわからない不安に飲まれていた。恋人から帰宅時間を聞くのを忘れていた。時計は21時を回っていたと思う。夕食後の薬を飲んで落ち着こうと思いついて、薬袋を覗いた。すると、次回の診察までのハルシオンの束と飲み残したデパスなど、様々な薬がやけに目についた。全部飲んでしまったら、どうなるんだろう?今まで何度も首を吊っても死にきれなかったのは、意識が飛ぶ前に自分で回避してきたからだ。逃げ場をなくせば死ねると思った。そして、薬の粒を片手いっぱいに溜めていく。水で飲んでも早く効かないだろうと赤ワインで、左手に溜めた薬を口に入れ噛み砕きながら飲み干した。意識がなくなる前にと思いついて、引っ越しで使ったビニール紐をトイレの内側のドアノブに巻き付け、外側に上から垂らして輪っかを作った。それだと体重でドアが開いてしまいそうだったので、外側のドアノブにも巻いてから輪っかにした。しばらくしても、意識は飛ばないし眠くもならなかった。仕方がないのでスケジュール帳のノート部分を破いて、簡単に遺書を書いた。酒に酔ってきたらしいけれど、普通に歩けるし意識もしっかりしている。ぼんやりしてくるまで、掃除でもしよう。ソファの位置を正して、テーブルを拭いて。20分程度しか潰せなかった。もういい、吊ってみよう、とビニール紐に首を通した。とりあえず待てなかったし、死ぬにはビニール紐は細すぎた。ただ痛いだけで、死ねる気配はなかった。しかし意外と逃げられない仕組みで作ってしまっていた。左手を伸ばすと、キッチンのシンクに包丁を見つけた。刃の部分をつまんで取り上げ、ビニール紐を切った。勢いよく廊下に弾かれ、足がもつれた。包丁がリビングの床に落ちたので拾って、遺書の横に置いた。首を吊るのは平気でも、刃物は何故か怖かった。スマホを起動させて、震える手で母親に電話をかけた。とにかく何か死ぬようなことをやったことは伝わった。大家さんが近くに住んでいるから、このまま通話しながらそこに行くよう言われたので、大家夫婦の家まで行った。インターホンを鳴らした頃には立ち上がれなくなっていた。母が何か叫んでいたのが聞こえたらしく、旦那さんは私の手からスマホを取って、奥さんは上半身を抱きしめるようにして私を家の中に入れてくれた。大丈夫だからね、とずっと声をかけられていた。救急車を呼んでくれたらしく、よくわからないまま運ばれた。きれいな女医さんがいくつか質問してきて、何と答えたかは覚えていないが、最後に「胃洗浄はしなくてもいいみたいです。でも、一晩は入院してね」と言って去っていったのは覚えている。

この事件で母親の心配はピークに達した。地元に帰ることになった。

 

休学手続き、アルバイト退職、東京で済ませておかなければいけないことを行うと共に母親と東京観光をする。渋谷のペットショップでミックス犬の子犬を見つける。一緒に連れて帰ろうかという母親のひとことで飼うことになった。まだ生後2か月ほどの子犬を連れ、新幹線と電車を乗り継ぎ地元九州へ帰る。