自由な場所と逃げたい私

適応障害とか言われてる20歳女子の精神病棟入院記。10月20日退院。

タイムリミット

1ヶ月。私の場合、この期間は環境に慣れようとして案外元気に暮らせるのです。急性治療病棟の入院はおよそ3ヶ月間と決まっています。最後の1ヶ月が勝負なのです。大抵の患者さんは退院という言葉でテンションが上がります。自宅に帰るんだ。また家族と暮らすんだ。会社に戻るんだ。いろいろと思うところがあります。テンションが上がりすぎたり、その反動で落ちたり、感情はひたすら揺れ動きます。

私は、というと。残された入院期間はあと2ヶ月ほどです。今までの診察で、1度も退院の「た」の字も先生から聞いていません。「君の場合は、事情が思ったより複雑だからねぇ」先生は遠い目をします。それもそのはずです。私は自殺未遂で入院してきましたが、本来の入院の理由は別にあるわけですから。

東京の短大に通っていた頃に、6回の未遂のうち最も危険な方法で自殺しようとしました。貯めておいたハルシオンデパスをお酒で盛大に消費し、仕掛けておいたビニール紐の輪っかに首を突っ込んで脱力するというものです。端的に言うと、オーバードーズからの首吊りです。遺書まで書きました。救急車もパトカーも呼ばれました。大家さんも仕事帰りの恋人もびっくり、母は大パニック。しかもこれで東京に来て3回目の首吊り未遂です。さあ、東京には置いておけない。私は西の果てに帰ることになりました。西の果ての大きな精神病院の外来に通うことになりました。そして再び、西の果てで母と祖母と暮らすことになったのです。
最初の1ヶ月は、母をパニックにしてはいけない、という緊張感で変なことはしませんでした。2ヶ月目。いつ死のうとするか分からない娘に、まだ母は怯えていました。それをひしひしと感じていたので、私は元気そうにしてみせました。バイトしようかな、だの、自動車学校行きたいな、だのと言ってみたりしました。母が落ち着かないうちは、私が彼女を安心させてあげるしかないのです。積もるストレス。母が明るい表情を見せると、それまでの張り詰めた感じが解けて、どっと疲れました。部屋でくたぁっとしていました。そんな調子が何ヶ月続いたのでしょうか。もう数える気にもなりませんが、とにかく今年の4月です。体力的には元気だったので当時の状況を見かねた恋人に連れられ、京都に3泊4日の旅行に行きました。縁切り神社で何かしらの縁を切り、新しい縁を結んで頂いたようです。旅行から帰ると、私はそれまでが嘘だったように元気になって、ランニングをしたり、バイトの面接を受けに行ったりしました。そして、ずどん。こんなに元気にしている私を、母は奇怪な目で見ているようでした。バイトだってやるよ、来年度には専門学校に行くって言ったよ?嫌いだった運動もしてるよ。ねえ、実家に帰ってきて私、元気になったのに、どうしてそんなに心配そうな目をするの。やめて。やめて。やめて。どうして?死にたそうな私が普通なの?だったらお望み通り、死にたいみーちゃんになってあげる。完全に思考がおかしくなっていました。太くて長い父のベルトと細くてきつく締まる私のベルトを用意しました。やっぱり首吊りが手軽なのです。父のベルトは首に、私のベルトは手首に巻いて本気度をアピール。角度は死なない程度に。母が夕食を買いに行っている間に、6回目の自殺未遂らしき様子を作りました。あとは母が見つけてくれるだけ。しかし、母はなかなか帰ってきません。阿呆のような姿勢に飽きて、父のベルトから首を外し、手首は拘束したままその場に寝転がりました。その状態を母は発見しました。私は何も言う気が起きません。そのとき母が何を言っていたのかも覚えていません。次の診察はもうすぐでした。診察で死にたい死にたいと言ってみました。母は必死で自殺未遂していた、と証言します。狙い通り、入院したほうがいいと勧められました。死にたい私を演じなくていい場所が、あと少しで手に入るのです。「どうする?入院する?」愚かな質問です。強制入院さえ可能なこの状態で、母は私の意思を確認したのです。もう母の顔すら見たくありませんでした。なにも反応しない私を、入院するかどうか迷っていると判断したらしく、母は「もう少し考えさせてください」と主治医の先生に言い放ち、私を自宅へ連れ戻しました。その晩の話です。まだまだ隠し持っていたデパスハルシオンに頼り、母に入院を希望する意思を伝えたのは。まるで自殺です。

さて、残り2ヶ月。自宅へ帰ったところで、同じことが繰り返されるだけなんじゃないかと思います。ホスピタルシックになって、何度も入退院を繰り返すことになりそうです。病院での私は、落ち着きすぎています。帰りたくない気持ちが勝っています。あと2ヶ月で、母ときちんと向き合えるメンタルを身に付けられるのでしょうか?
時間とはシビアなものです。