自由な場所と逃げたい私

適応障害とか言われてる20歳女子の精神病棟入院記。10月20日退院。

恋愛もありなのです

精神病棟、と聞いてプラスイメージを持つ人は少ないのではないでしょうか。檻みたいな病室?意味不明な言葉を撒き散らし、暴れ回る人が収納されている感じ?かなり違います。他の患者さんに危害を加えたり、自傷行為などをしない限り、精神病棟は外科などの入院病室とほぼ変わりません。

入院している患者さんは大抵、鬱病適応障害摂食障害、対人恐怖、希死念慮などですから、他人に危害を加えようとはしません。むしろ、同じような苦しみを抱える者同士、友好的な関係を築くことのほうが多いのです。互いに病状を語り合うこともあれば、トランプや将棋、オセロなんかで盛り上がることもしばしばです。興味深いことに、私の入院するような男女混合の病棟では、患者同士の恋愛すら大いに有り得ます。私も含め、と付け加えておきましょう。
今は病棟移動で離れてしまった友達は、かれこれ1年ほどひとりの看護師さんに片思いをしているらしいです。物腰の柔らかな優しい看護師さんです。へー、そんなこともあるんだなぁーなんて他人事みたいに見ていたら。ある日、朝食の配膳に来た看護師さんが私に声をかけました。「おはよー。ご飯おいとくねー」ずいぶん低い声です。聞いたことないな。私は起き上がりつつ目を開けて、彼の姿を捉えました。驚きました。なんと高校の同級生(イケメン)にそっくりだったのです。思わず、えっ?と声をあげました。「ああ、おはよう。寝ぼけとる?ちゃんとご飯食べてね。んじゃ」彼は爽やかに病室を去っていきました。ぽかーん。一目惚れというのでしょうか?いえ、あの友達の影響です。看護師さん、という叶わぬ相手が非常に魅力的に見えたのです。急いで友達に、あのイケメンの看護師さんの名前は何だ、と早朝から捲し立てました。「あー、Oさん?細くて、黒のインナーの人やろ?」迷惑そうに彼女は答えます。ああ、Oさんって言うのね。次はいつ会えるのかしら。テンション急上昇。なんて元気な患者でしょう。そんなこんなでOさんと友達の好きな看護師さんが出勤する日を予想し、ひたすら待ち、来れば喜び、来なければシュンとし、というのを3週間ほどやりました。その間に京都旅行に連れて行ってくれた彼、つまり高校時代からの彼氏と、ちゃっかりお別れしました。主治医からの受け売りの言葉を使って、インスタントなお別れでした。
縁切りの神様は縁結びもお得意らしく、そんなこんなしているふわふわした私にも転機がやってくるのです。私の知らぬ間に入院してきた若い男性の患者さんがいました。かなりの長身で、女性なら必ず目で追う程のイケメンです。ラウンジでトランプの輪に入っているのを見て、初めて認識しました。どうして気づかなかったのか、今でも謎です。私には食堂の座敷という定位置がありました。彼も以前の入院からその座敷が定位置だったそうで、場所の取り合いとはならずとも妙な距離感。イケメンがすぐそばに・・・。どうしよう。しかも日に日になんだか、距離が詰まってきているような気すらします。さて、どうしたものか。人当たりが良く、いろんな人から慕われていた彼の周りでは、常に高校生やら中学生やら小学生やらがわいわいと騒いでいます。そんな中、彼は座敷に寝転がっていました。無論、頭は私を向いています。
「お膝・・・貸しましょうか?」
照れ隠し。刺激的な台詞が滑り出ました。自分でツッコミを入れる前に、中学生やら小学生がわーわー冷やかし始めます。ポーカーフェイスで背中に変な汗をかく私。おそらく狸寝入りの無反応な彼。しかし、そこからまともな会話が始まりました。言葉を交わし始めてすぐに、この彼と交際することになるんだろうなーという予感がしました。Oさんへの熱はいずこへ。若さでしょうか。しょっちゅう一緒に座敷にいれば、周囲も甘い香りを感じ取ります。それよりも先に、私達は手を握ったり、LINEを交換したりして、無言の交際がスタートしていました。有言の交際がスタートしたのは5月20日。入院して1ヶ月、元彼とお別れして半月、不思議な片思いをして3週間。恋人ができました。特殊すぎます。病棟が離れた友達には嫉妬され、気まずくもなりましたが、もう会うことはないので良いでしょう。

こんなことも起こりうる精神病棟。少しはイメージが変わったでしょうか?私達の恋愛を応援してくれる患者さんがいるかと思えば、病院側も公認するというスタンスです。案外オープンなんだな、と驚きます。

タイムリミット

1ヶ月。私の場合、この期間は環境に慣れようとして案外元気に暮らせるのです。急性治療病棟の入院はおよそ3ヶ月間と決まっています。最後の1ヶ月が勝負なのです。大抵の患者さんは退院という言葉でテンションが上がります。自宅に帰るんだ。また家族と暮らすんだ。会社に戻るんだ。いろいろと思うところがあります。テンションが上がりすぎたり、その反動で落ちたり、感情はひたすら揺れ動きます。

私は、というと。残された入院期間はあと2ヶ月ほどです。今までの診察で、1度も退院の「た」の字も先生から聞いていません。「君の場合は、事情が思ったより複雑だからねぇ」先生は遠い目をします。それもそのはずです。私は自殺未遂で入院してきましたが、本来の入院の理由は別にあるわけですから。

東京の短大に通っていた頃に、6回の未遂のうち最も危険な方法で自殺しようとしました。貯めておいたハルシオンデパスをお酒で盛大に消費し、仕掛けておいたビニール紐の輪っかに首を突っ込んで脱力するというものです。端的に言うと、オーバードーズからの首吊りです。遺書まで書きました。救急車もパトカーも呼ばれました。大家さんも仕事帰りの恋人もびっくり、母は大パニック。しかもこれで東京に来て3回目の首吊り未遂です。さあ、東京には置いておけない。私は西の果てに帰ることになりました。西の果ての大きな精神病院の外来に通うことになりました。そして再び、西の果てで母と祖母と暮らすことになったのです。
最初の1ヶ月は、母をパニックにしてはいけない、という緊張感で変なことはしませんでした。2ヶ月目。いつ死のうとするか分からない娘に、まだ母は怯えていました。それをひしひしと感じていたので、私は元気そうにしてみせました。バイトしようかな、だの、自動車学校行きたいな、だのと言ってみたりしました。母が落ち着かないうちは、私が彼女を安心させてあげるしかないのです。積もるストレス。母が明るい表情を見せると、それまでの張り詰めた感じが解けて、どっと疲れました。部屋でくたぁっとしていました。そんな調子が何ヶ月続いたのでしょうか。もう数える気にもなりませんが、とにかく今年の4月です。体力的には元気だったので当時の状況を見かねた恋人に連れられ、京都に3泊4日の旅行に行きました。縁切り神社で何かしらの縁を切り、新しい縁を結んで頂いたようです。旅行から帰ると、私はそれまでが嘘だったように元気になって、ランニングをしたり、バイトの面接を受けに行ったりしました。そして、ずどん。こんなに元気にしている私を、母は奇怪な目で見ているようでした。バイトだってやるよ、来年度には専門学校に行くって言ったよ?嫌いだった運動もしてるよ。ねえ、実家に帰ってきて私、元気になったのに、どうしてそんなに心配そうな目をするの。やめて。やめて。やめて。どうして?死にたそうな私が普通なの?だったらお望み通り、死にたいみーちゃんになってあげる。完全に思考がおかしくなっていました。太くて長い父のベルトと細くてきつく締まる私のベルトを用意しました。やっぱり首吊りが手軽なのです。父のベルトは首に、私のベルトは手首に巻いて本気度をアピール。角度は死なない程度に。母が夕食を買いに行っている間に、6回目の自殺未遂らしき様子を作りました。あとは母が見つけてくれるだけ。しかし、母はなかなか帰ってきません。阿呆のような姿勢に飽きて、父のベルトから首を外し、手首は拘束したままその場に寝転がりました。その状態を母は発見しました。私は何も言う気が起きません。そのとき母が何を言っていたのかも覚えていません。次の診察はもうすぐでした。診察で死にたい死にたいと言ってみました。母は必死で自殺未遂していた、と証言します。狙い通り、入院したほうがいいと勧められました。死にたい私を演じなくていい場所が、あと少しで手に入るのです。「どうする?入院する?」愚かな質問です。強制入院さえ可能なこの状態で、母は私の意思を確認したのです。もう母の顔すら見たくありませんでした。なにも反応しない私を、入院するかどうか迷っていると判断したらしく、母は「もう少し考えさせてください」と主治医の先生に言い放ち、私を自宅へ連れ戻しました。その晩の話です。まだまだ隠し持っていたデパスハルシオンに頼り、母に入院を希望する意思を伝えたのは。まるで自殺です。

さて、残り2ヶ月。自宅へ帰ったところで、同じことが繰り返されるだけなんじゃないかと思います。ホスピタルシックになって、何度も入退院を繰り返すことになりそうです。病院での私は、落ち着きすぎています。帰りたくない気持ちが勝っています。あと2ヶ月で、母ときちんと向き合えるメンタルを身に付けられるのでしょうか?
時間とはシビアなものです。

ラストティーン、おめでとう!

私の家庭は比較的恵まれています。父は公務員で安定した収入があり、私以外に子供もいませんし、同居している祖母には要介護手当てのようなものが出ているので、お金のかかるところが少ないのです。

高校時代は、なんとなく国立大学を目指すつもりだったので、個別指導塾で苦手な数学を補っていました。その数学を丁寧に教えてくれていた先生と、地元の夏祭りの頃に恋仲になりました。21歳の彼は専門学校を出て、既に社会人として東京で働いていました。家庭の事情で1年休職し地元に帰り、とりあえずのアルバイトで塾講師をしていたそうです。私が大学生になる頃には東京に帰ってしまう・・・。そういうわけで、私は希望進学先を東京の私立女子短大にしました。得意な英語さえあれば、簡単に合格できる大学です。偏差値も就職率も高めで、華々しい名前のついた短大です。滑り止めすら受験せずとも、反対されることはありませんでした。唯一、母から出された条件は短大の寮に入ることでした。もちろん私はその条件をのみました。

さて、その寮は教育寮と呼ばれる厳しい規律のある寮でした。その規律やら門限やらに文句はありませんでした。学校で興味のあることを学び、渋谷でショッピングして、友達のいる寮でわいわい暮らす。金曜日の夜から日曜日の夜まで彼の家に外泊。幸せでした。五月病にもなりませんでした。人生で一番元気だったんじゃないかと、今になって思います。

調子を崩し始めたのは6月頃。2人部屋でも全く気にならなかった他人の生活音が、急に聴覚と思考を襲いました。床を擦るような足音、教科書をめくる乾いた音、友達が飴を舐める音。全てがイライラに変わりました。寝つけない。中途覚醒。寮のどこにいても落ち着かない。それが1ヶ月半続いた頃、期末試験直前が私の誕生日でした。待ちきれないといった様子で誕生日の2日前、仲の良い友達が続々とプレゼントをくれました。

「あぴんちゃんと出会えてよかった!おかげで毎日楽しいよ!ありがとう!19歳おめでと!!」

「フライングでごめんね。これからも一緒に課題がんばろう!P.S.シュークリーム、早く食べてね♡」

「彼氏だけじゃなくて、わたしとも遊んでよ(笑)happy birthday♡」

すごく嬉しかったです。眠れなくても、音が気になってきつくても、彼女たちのことは、やっぱり大好きでした。 これからもやっていける。試験だって余裕。このまま、あと1年半がんばろう。

体調不良をリポビタンfineで乗り切り、私は全ての科目の単位をA評価で取得し、夏休みを迎えました。閉寮になるので、恋人の家に避難しました。相手が友達だろうと恋人だろうと、既に私は誰かと同室で眠るということができなくなっていました。授業終わりに通っていたメンタルクリニックで処方されていたデパスでも、眠れなくなっていました。誕生日から約1ヶ月後。寮の友達からLINEが来ました。

「すっかり言うの忘れてた!誕生日おめでとう!ラストティーン、おめでとう!彼氏と仲良くね!」

この言葉で、がんばろうと思えるほど私はもう強くありませんでした。壊れる寸前でした。ラストティーン?なにそれ?ねえ、眠らせて。

入院に至るまで 2

たぶん母はパニック障害鬱病を患っています。彼女の口からはパニック障害がある、としか聞いたことがありませんが。それにしても母がパニックになると、私もパニックなのです。

それでも落ち着きを取り戻した母は自分の兄、私の伯父に応援を頼みました。穏やかな性格で家事全般をこなせる伯父が家にいてくれるというのは、これ以上ないほどの安心を私に与えてくれました。

「大丈夫や?正直お前が一番きついやろう」

伯父は私の肩を励ますようにたたきました。それから3日ほど伯父は私と母、同居している祖母の面倒をみてくれました。私の入院についても、いろいろと母をフォローしつつ話を進めてくれていたようです。そんな伯父の協力で、4月20日に私の入院が決定しました。実家からは遠い病院まで運転して連れて行ってくれたのも伯父でした。

「しっかり休め。お母さんの心配はしなくていい。俺が面倒見とく」

私は精一杯の感謝の気持ちを伝え、伯父の車を後にしました。母のことは心配ではあったけれど、離れたい気持ちが強かったです。伯父がいてくれて本当によかったです。いつか、恩返しをしたいと思っています。


入院の前に外来の診察室で、手続きやら説明やらが行われました。いつもピンと背筋を伸ばして隣に座っている母が覇気のない姿でだらんと椅子に腰掛けているのを見て、主治医のM先生は「お母さんも入院しませんか。もちろん病棟は分けますから」と心配を色濃く見せました。私には母とペットの世話が・・・と渋る母。M先生は「具合が悪くなったらウチの病院で面倒見ますからね!」と強く強く釘を刺して母を自宅に帰らせました。

19歳。しかし成人女性に見えるらしい私は、喫煙所の案内まで受けました。

そうして私の入院生活が始まります。

入院に至るまで 1

「ごめんね、この家にいたくないの。入院させて」

これが母に言った決定的一言です。一世一代の賭けでした。この一言のために私はデパスを3錠ほど飲み、寝逃げするためハルシオンを1錠握りしめていました。

「そっか、わかった。明日病院に電話するね」

母は落ち着いているように見えました。よかった、と安心して眠りにつきました。

翌日。十数年ぶりに母のパニック状態、欝状態を目にしました。そして、初めてそのパニックをぶつける相手が私になりました。

「私は娘に安住の地も与えられないダメな母親です。あーちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい。許して。死にたいなんて言わないで。あんたは何も悪くない。死ぬのは私。私は生きる価値もない人間です。許して。許して!」

こんな様子で私の部屋の畳に額をこすりつけて、ボロボロに泣いていました。どうしよう。とりあえず落ち着かせなきゃ。私は母を宥め、なんとか自室で寝せておくことに成功しました。しかし。30分後、母は再び私の部屋を訪れました。

「ふふふ、ねえ。死にたいんでしょ?私もこんな暮らし辛い。あ!一緒に死ねばいいんだ!どーしてこんな簡単なことがわかんなかったんだろう!首吊る?手首切ってお風呂に浸ける?車で海に突っ込む?ねえねえ!」

狂気です。私はケタケタと笑い、泣きする母をタクシーに引っ張り込み、かかりつけの心療内科に連れていきました。母は90分ほど点滴を受け、心中をしようなんていう活力を失い、欝状態で放心していました。よく分からない強い薬を出され、きちんと飲ませるようにと私に指示が下りました。まあ、心中させられるより余程マシな状態です。こうして私の入院は延期になりました。