恋愛もありなのです
精神病棟、と聞いてプラスイメージを持つ人は少ないのではないでしょうか。檻みたいな病室?意味不明な言葉を撒き散らし、暴れ回る人が収納されている感じ?かなり違います。他の患者さんに危害を加えたり、自傷行為などをしない限り、精神病棟は外科などの入院病室とほぼ変わりません。
タイムリミット
1ヶ月。私の場合、この期間は環境に慣れようとして案外元気に暮らせるのです。急性治療病棟の入院はおよそ3ヶ月間と決まっています。最後の1ヶ月が勝負なのです。大抵の患者さんは退院という言葉でテンションが上がります。自宅に帰るんだ。また家族と暮らすんだ。会社に戻るんだ。いろいろと思うところがあります。テンションが上がりすぎたり、その反動で落ちたり、感情はひたすら揺れ動きます。
ラストティーン、おめでとう!
私の家庭は比較的恵まれています。父は公務員で安定した収入があり、私以外に子供もいませんし、同居している祖母には要介護手当てのようなものが出ているので、お金のかかるところが少ないのです。
高校時代は、なんとなく国立大学を目指すつもりだったので、個別指導塾で苦手な数学を補っていました。その数学を丁寧に教えてくれていた先生と、地元の夏祭りの頃に恋仲になりました。21歳の彼は専門学校を出て、既に社会人として東京で働いていました。家庭の事情で1年休職し地元に帰り、とりあえずのアルバイトで塾講師をしていたそうです。私が大学生になる頃には東京に帰ってしまう・・・。そういうわけで、私は希望進学先を東京の私立女子短大にしました。得意な英語さえあれば、簡単に合格できる大学です。偏差値も就職率も高めで、華々しい名前のついた短大です。滑り止めすら受験せずとも、反対されることはありませんでした。唯一、母から出された条件は短大の寮に入ることでした。もちろん私はその条件をのみました。
さて、その寮は教育寮と呼ばれる厳しい規律のある寮でした。その規律やら門限やらに文句はありませんでした。学校で興味のあることを学び、渋谷でショッピングして、友達のいる寮でわいわい暮らす。金曜日の夜から日曜日の夜まで彼の家に外泊。幸せでした。五月病にもなりませんでした。人生で一番元気だったんじゃないかと、今になって思います。
調子を崩し始めたのは6月頃。2人部屋でも全く気にならなかった他人の生活音が、急に聴覚と思考を襲いました。床を擦るような足音、教科書をめくる乾いた音、友達が飴を舐める音。全てがイライラに変わりました。寝つけない。中途覚醒。寮のどこにいても落ち着かない。それが1ヶ月半続いた頃、期末試験直前が私の誕生日でした。待ちきれないといった様子で誕生日の2日前、仲の良い友達が続々とプレゼントをくれました。
「あぴんちゃんと出会えてよかった!おかげで毎日楽しいよ!ありがとう!19歳おめでと!!」
「フライングでごめんね。これからも一緒に課題がんばろう!P.S.シュークリーム、早く食べてね♡」
「彼氏だけじゃなくて、わたしとも遊んでよ(笑)happy birthday♡」
すごく嬉しかったです。眠れなくても、音が気になってきつくても、彼女たちのことは、やっぱり大好きでした。 これからもやっていける。試験だって余裕。このまま、あと1年半がんばろう。
体調不良をリポビタンfineで乗り切り、私は全ての科目の単位をA評価で取得し、夏休みを迎えました。閉寮になるので、恋人の家に避難しました。相手が友達だろうと恋人だろうと、既に私は誰かと同室で眠るということができなくなっていました。授業終わりに通っていたメンタルクリニックで処方されていたデパスでも、眠れなくなっていました。誕生日から約1ヶ月後。寮の友達からLINEが来ました。
「すっかり言うの忘れてた!誕生日おめでとう!ラストティーン、おめでとう!彼氏と仲良くね!」
この言葉で、がんばろうと思えるほど私はもう強くありませんでした。壊れる寸前でした。ラストティーン?なにそれ?ねえ、眠らせて。
入院に至るまで 2
たぶん母はパニック障害と鬱病を患っています。彼女の口からはパニック障害がある、としか聞いたことがありませんが。それにしても母がパニックになると、私もパニックなのです。
それでも落ち着きを取り戻した母は自分の兄、私の伯父に応援を頼みました。穏やかな性格で家事全般をこなせる伯父が家にいてくれるというのは、これ以上ないほどの安心を私に与えてくれました。
「大丈夫や?正直お前が一番きついやろう」
伯父は私の肩を励ますようにたたきました。それから3日ほど伯父は私と母、同居している祖母の面倒をみてくれました。私の入院についても、いろいろと母をフォローしつつ話を進めてくれていたようです。そんな伯父の協力で、4月20日に私の入院が決定しました。実家からは遠い病院まで運転して連れて行ってくれたのも伯父でした。
「しっかり休め。お母さんの心配はしなくていい。俺が面倒見とく」
私は精一杯の感謝の気持ちを伝え、伯父の車を後にしました。母のことは心配ではあったけれど、離れたい気持ちが強かったです。伯父がいてくれて本当によかったです。いつか、恩返しをしたいと思っています。
入院の前に外来の診察室で、手続きやら説明やらが行われました。いつもピンと背筋を伸ばして隣に座っている母が覇気のない姿でだらんと椅子に腰掛けているのを見て、主治医のM先生は「お母さんも入院しませんか。もちろん病棟は分けますから」と心配を色濃く見せました。私には母とペットの世話が・・・と渋る母。M先生は「具合が悪くなったらウチの病院で面倒見ますからね!」と強く強く釘を刺して母を自宅に帰らせました。
19歳。しかし成人女性に見えるらしい私は、喫煙所の案内まで受けました。
そうして私の入院生活が始まります。
入院に至るまで 1
「ごめんね、この家にいたくないの。入院させて」
これが母に言った決定的一言です。一世一代の賭けでした。この一言のために私はデパスを3錠ほど飲み、寝逃げするためハルシオンを1錠握りしめていました。
「そっか、わかった。明日病院に電話するね」
母は落ち着いているように見えました。よかった、と安心して眠りにつきました。
翌日。十数年ぶりに母のパニック状態、欝状態を目にしました。そして、初めてそのパニックをぶつける相手が私になりました。
「私は娘に安住の地も与えられないダメな母親です。あーちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい。許して。死にたいなんて言わないで。あんたは何も悪くない。死ぬのは私。私は生きる価値もない人間です。許して。許して!」
こんな様子で私の部屋の畳に額をこすりつけて、ボロボロに泣いていました。どうしよう。とりあえず落ち着かせなきゃ。私は母を宥め、なんとか自室で寝せておくことに成功しました。しかし。30分後、母は再び私の部屋を訪れました。
「ふふふ、ねえ。死にたいんでしょ?私もこんな暮らし辛い。あ!一緒に死ねばいいんだ!どーしてこんな簡単なことがわかんなかったんだろう!首吊る?手首切ってお風呂に浸ける?車で海に突っ込む?ねえねえ!」
狂気です。私はケタケタと笑い、泣きする母をタクシーに引っ張り込み、かかりつけの心療内科に連れていきました。母は90分ほど点滴を受け、心中をしようなんていう活力を失い、欝状態で放心していました。よく分からない強い薬を出され、きちんと飲ませるようにと私に指示が下りました。まあ、心中させられるより余程マシな状態です。こうして私の入院は延期になりました。